"私の裁判"

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産申請中←今ココ)

20年前

電子レンジがほしい。
炊飯器がほしい。
焼き魚食べたい。
ピーナッツバター食べたい。
大根おろしが食べたい。
小さくて良いから、ご飯食べれるテーブルが欲しい。
内科へ行きたい。



すみません、独り言でした。


元ダイアナ妃殿下が亡くなって20年という番組ばかりが目に入ってくる。

彼女が亡くなったと知った日、会った事も話をした事も無かった人なのに、ショックだったのを覚えてる。


彼女の書いた文章の中に、

お金はいらない、ただ愛情がほしい」と書いてあった。


どちらも無く育ち、生きてきた私にとっては、究極の選択だ。




きっと彼女の生き方、考え方は、私などでは比較のしようがない感覚であったに違いない。

ただ、こんな私でも同じ気持ちになれる事もある。


子供を想う気持ち。


本当の愛情を欲しかったという気持ち。


振り向いてほしいと想う少女のような気持ち。


自分が欲しかった愛情を自分の子供に全力で注いだ気持ち。

力の弱い人を自分の出来る事で助ける気持ち。



こういう気持ちが同じでも、

どこで、どう違った人生なのか。

産まれた時の状況が違うんだろうね。


子供は親を選べない。


この言葉を自分の子供に言われた時には、ショックだった。

最初はショックだったけれど、何十回も言われているうちに、もう何とも思わなくなってる?(かも)



自分は、自分の親のような酷い事を自分の娘にはしないと誓った人生を送ってきたはずだったが。


私が死んでも、母を尊敬していたとは娘に言われないのだね。


なぜ私が今、生きていたか?

娘の存在があったから。

今は、犬くんに対する責任から。



もう失うものが無い人間ほど、孤独なものは無いね。


自分の人生を何かの為だけに注ぐなんて事は無いと想う人も多いだろう。


だけど、家族や誰かに本当の愛情を注がれた事の無い人間にとって、

自分を必要とされる事が全てなくなった時の、喪失感、絶望感は、

経験した人で無ければわからないのではないかな。


いくら、言葉で説明しようとしてもこれは理解不可能だと知ってる。


自分が必要とされている社会があるかどうか?

必要とされる存在がいるかいないか?



「気楽でしょう。これからは、自分の好きに生きたらいいね」という人もいる。



まだ幼い頃から、何か言い訳のように理由をつけて生きてきた私にとって、

気楽なんていらないんだ。

趣味?

子供を育てる事で必死だった私にとって、子供がお腹をすかせるような暮らしには絶対にさせない事、

私が再婚などして、子供に寂しい思いをさせたくない、

それだけで、何とか命が繋がっていた私にとって、趣味など無い。



私の生きる為の知恵が、歪んだ形になって娘の目に残ってしまった。




謝っても、後悔しても、反省しても、過去には戻れない。


元ダイアナ妃は短い生涯だったけれど、多くの経験と時間を走りきったような人生だったかもしれない。


子供たちと一緒に暮らせない生活を選び、自分の思う暮らしを選んだ勇気は真似出来ない。


その母の愛情が、2人の息子達にしっかと伝わっていて、亡くなってしまった事を

悲しんでくれる家族が彼女にはいるという事。

世界中の人が悲しんだという命は、決して孤独でも寂しいものでも無かったと天国で観ていてくれるといいな。


私は、天国へ行けないのかも。

生きていても、死んでしまっても、誰の役にもたたない。

何かを恨む事も無い。


昨日は、私の実母の誕生日だったんだ。

彼女もまた寂しい人生だったに違いない。(まだ生きてると思うけど)


本当の愛情を知らず、いつも男にすがること、子供を大事にしなかったこと。


あんな母親にはなるまい。

そう思って生きてきたのに、

私は母親と同じく、娘に見捨てられたのだね。



私の実母は私が見捨てても、弟がいる。弟は母を見捨てないから。


私よりも酷い思いや辛い経験を母からはさせられて生きてきた弟だけれど、

それでも母を見捨てないという弟には、頭が下がる。


弟とも、母親とも、もう会う事は無いだろう。

当然、私の実父にももう会わないだろう。


家族に愛され、長生きしてもらいたいと思われる人が災害などで亡くなり、


私のように、いなくても誰も困らない命が繋がれているって皮肉だ。


20年前の私、娘が6歳。

彼女の手を決して何があっても離さない。

私が世界中を敵に回しても1人で育てると決めた年だった。